2010年2月16日
マーストリヒト
8000年から25000年前の旧石器時代の遺構が、市内の西部で発見されている。ローマ人が住みつく少なくとも500年前には、マース川が浅瀬になり対岸に容易に渡ることができる地点にケルト人が住んでいた。その後、ローマ帝国が現在のシント・セルファース橋の少し上流側に橋を架け、帝国内各地より低地ゲルマニアの州都ケルンに繋がる道を造った。(この橋は13世紀に、シント・セルファース橋の位置に架け替えられている。)
8世紀には近隣のリエージュに司教区の地位を奪われ、881年にはノルマン人に占領されたが、1204年にブラバント公国が領有権を奪還すると、この町に都市権を与えた。その後のブラバント公国とリエージュ司教領の二重支配は、1794年のバタヴィア革命によるフランスの傀儡政府による支配を受けるようになるまで続いた。
1204年に都市権を得た後、城壁の建造に取り掛かった。1229年には最初の城壁が完成し、14世紀には二重の城壁を持つ強固な要塞都市となった。1579年には、スペイン王の命を受けたアレッサンドロ・ファルネーゼによる攻略により、マーストリヒトを含む南部10州はゲント講和条約に基づきスペインの統治を受けることになる。その後、フランスと結んだオラニエ公が1632年に街を奪還したが、マーストリヒトはネーデルラント連邦共和国の一部となることは無かった。
1794年のバタヴィア革命の後、フランスの傀儡政権下でマーストリヒトは新たに作られたネーデルマース州の州都となった。この状態は1814年まで続いた。フランスによる支配が去り、1815年にはネーデルラント連合王国が建国されるとその一部となり、新たに作られたリンブルフ州の州都となった。1830年にベルギー独立革命が起こり、周辺の都市がベルギー側に帰属するようになっても、マーストリヒトはオランダ側に残ることを選択した。1831年に列強の合意により、リンブルフ州の東部がオランダに、残り全てがベルギーに帰属することが決定されたが、一部でこの分割に反対する者が居たため、最終的に1839年のロンドン条約にて帰属が確定した。こうして、ベルギーとドイツの領土に突き出したような不自然な形で、マーストリヒトがオランダ領という現在の状況が生まれている。
マーストリヒト市街地中心部は、マース川西岸の旧市街、東岸のウィック(Wyck)地区、ウイック地区の南のセラミク(Céramique)地区の3つの地区に分けられる。マーストリヒト駅はウィック地区の東端にあり、旧市街中心の広場であるフライトホフ広場(Vrijthof)へは、マース川に架かる聖セルファース橋を渡って、およそ1.1kmの距離がある。旧市街での主な見どころには次のようなものがある。
旧市街の城壁
13~14世紀に構築された二重の城壁の一部が旧市街の南側などに残存している。城壁の周辺は公園となっている所もある。
地獄の門(Helpoort)
1229年に構築されたかつての城門。その後、火薬庫や芸術家のアトリエとして使われていたこともあった。現在でも城壁を貫通する門として機能している。オランダに現存する最も古い城門でもある。
ボンネファンテン博物館(Bonnefantenmuseum)
この地域の考古学資料、中世の絵画や現代芸術を展示している。旧市街から見てマース川の対岸にある、アルド・ロッシ設計のユニークな建物の中にある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
マーストリヒトはオランダ南東端部に位置しています。地獄の門があるところで有名です。
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